相応和尚
(そうおうかしょう 831年〜918年)
 

 比叡山における実践道としての行門の一つに「千日回峰行」がある。これの創始者が相応和尚である。 相応は北野に生まれ、15歳の時に比叡山に登り、2年後に出家した。その後、最澄の遺訓に従い籠山12年の修行に入る。
 相応の修学や数々の善行などで、慈覚大師円仁に認められ、直接学問の指導を得た。そして、山中に幽深の地を求め、比叡山の南岳(現在の無動寺)に一草庵を結び、苦修練行の体験を積んだ。ここで独特の回峰修験の法を大成したのである。さらに、生身不動明王の出現を祈念し、修行を励んだ。最後の7日間は閉眼合掌、すべての飲食を断ち参籠していたところ、、爆水の中に不動明王を感得。思わず滝壷に飛び込み、浮かぶ1本の桂の古木を拾い上げ、不動明王を刻んだ。これが現在の葛川明王院の起源である。
 今も相応が実践した修行が正確に継承され、毎年、7月に修行僧による葛川参籠、あるいは、葛川谷の住人などによる伝統行事「太鼓まわし」が行われている。

●主な展示物●
 ・千日回峰行の装束
 ・菅公自作像と小鏡
 ・葛川の第三の滝 他
   
片桐且元
(かたぎりかつもと1556年〜1615年)
 

 安土桃山時代の武将。弘治2年須賀谷で生まれる。秀吉に仕え天正2年(1583年)賎ケ岳の戦いで抜群の功をたてた七本槍の一人である。その功により三千石をあてがわれる。その後、小牧、九州、小田原の諸役に従った。
 文禄4年(1595年)に賎ケ岳の戦いの追賞として五千八百石を加増され、一万石の大名になった。関ヶ原以降は徳川家康のために尽くしてその信任を得、慶長6年(1601年)には家康から一万八千石の加増を受けて大和竜田の城主となり、大坂城中の筆頭人としての位置を固めた。
 家康の信任を背景に東西交渉の主担者となったが、大仏鐘銘事件ではかえって家康に翻弄されたあげく、関東のスパイ視されて大坂城から追放され、その後大坂冬・夏両陣を通じ関東方として大坂城攻めに加わった。戦後加増されて四万石を領することになったが、豊臣氏滅亡から20日後に没する。

●主な展示物●
 ・十一面観音立像と侍像
 ・父子の位牌 他

   
海北友松
(かいほうゆうしょう 1533年〜1615年)
 安土桃山時代の画家。浅井長政の重臣である海北綱親の子で、名は紹益といい天文2年瓜生で生まれた。織田信長によって主家浅井家が滅ぼされた。しかし、すでに早く京都、東福寺に出家していた友松一人はこの難を逃れ、41歳で還俗、以後海北家再興を志し、画事のかたわら武芸にも励んだ。
 画は独力で自らの画境を切り開いたと言われる。友松独特の人物画は「袋人物」と呼ばれ賞賛された。そうした画人としての活動だけでなく、友松は和歌や連歌、茶の湯にも通じ、当代一流の文化人としての高い教養を備えていた。その一端はかれの幅広い交友からもうかがえる。明智光秀の配下であった斎藤利三とはとりわけ親しく、のち1582年山アの合戦で光秀が破れ、利三が秀吉側に捕らえられて処刑された時、友松はその遺体を奪い返し、真如堂に葬ったという。朝廷の御用をつとめ、また豊臣秀吉に仕えて聚楽第に多くの絵を描いた。友松の作品は当時の画人に比べ、多く残っている。建仁寺大方丈障壁画や、建仁寺禅居庵障壁画「飲中八山図屏風」(京都国立博物館)、「山水図屏風」(東京国立博物館)、「雲龍図屏風」(北野天満宮)、「牡丹図屏風」(妙心寺)。桂宮家伝世の品である「浜松図屏風」「網干図屏風」などが代表作に数えられる。いずれも気迫のこもった鋭い表現をみせ、武人画家友松の面影を彷彿とさせる。慶長20年6月2日没。親友斎藤利三の墓もある真如堂に葬られた。後年、海北家は友松の子友雪の代になって海北派は一時没落するが、この時、海北家を引き立て再興させたのは、ほかならぬ利三の娘春日局であった。友松の恩義に報いたのであろう。

●主な展示物●
 ・自筆の画軸・屏風
 ・夫婦像と賛文 他

   
小堀遠州
(こぼりえんしゅう 1579年〜1647年)
 
 江戸時代初期の総合文化人として知られる。徳川家康に従い、備中国奉行で、検地奉行も勤めた小堀正次の子で、天正7年、現在の長浜市小堀町で生まれた。正次が没し、技術官僚としての才能は遠州に引き継がれていく。江戸幕府の高官(技術官僚)を勤め、国奉行・伏見奉行を歴任、当時の畿内政治の中心人物であった。また、造園・建築の作事奉行を勤め、皇居・江戸城・大坂城・名古屋城・駿府城などの事業を成し、芸術感や識見に優れ、天才的技量を発揮した。中でも大徳寺・孤蓬庵・桂離宮・竜光寺密庵などは著名である。さらに大名茶を確立し、千利休・吉田織部と並んで桃山以降の三大茶人の一人といわれ、徳川秀忠・家光の二代にわたり茶道師範を勤め、遠州流の祖となった。
 実務的な才能に加え、家康・秀忠の信任を得ていた岳父藤堂高虎の後ろ盾にも応えた。
 遠州は近江の仕事も多く、近江国奉行を長く勤め、さらに現浅井町に一万石の領地を得、小室藩の基礎を築いた。遠州自身がこの地に定住することはなかったようだが、領地の人々を愛する心は熱く、日照りで困っている農民のために、木尾・高畑・竜安寺・小室などの、溜め池造築に着手した。
 遠州公なき後、正之が父の遺志を継ぎ、小室に居城を築いた。小室陣屋(御殿)や家臣屋敷を完成し陣屋を中心とした36ケ村の所領からなる藩政治の核となった。

●主な展示物●
 ・出生地の検地図
 ・遠州の年譜、プロフィール
 ・小堀家の甲冑 他

   
小野湖山
(おのこざん 1814年〜1910年)
 

 漢詩人。
 文化11年11月12日、高畑の横山玄篤の長男として生まれる。本名山巻。通称仙助。別号は玉池仙史、狂狂老夫など。初め父玄篤の業を継いで医術を修めたが、幼年期より学問が好きで、梁川星厳が起こした玉池吟社の社友となり、大沼沈山らと交わる。18歳で江戸に出て苦学をして実力をつけ三河国(現愛知県)の豊橋城主に招かれて藩政にたずさわった。
 幕末には尊皇攘夷思想を抱き、水戸の藤田東湖らとも親交を結んだ。勤皇の志士とも交際し、国事にも関与した。後に、その功で従五位に叙せられ、一時は維新政府の総裁局権参事・記録局主任となるが、これを依頼退職してからは、たびたびの政府の要請にもかかわらず、かたく復職を辞して詞の創作を続けた。天皇に硯をもらって書斎を賜硯楼と名づけた。
 漢詩集「湖山楼詞」「湖山老後詞」「華厳瀑布歌」などをまとめ、大沼沈山、鯱松塘と共に、明治の三詩人といわれた。明治43年4月10日、97歳で没。

●主な展示物●
 ・恩賜の硯
 ・追悼詞屏風
 ・五才の書軸 他