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| 相応和尚 (そうおうかしょう 831年〜918年) |
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比叡山における実践道としての行門の一つに「千日回峰行」がある。これの創始者が相応和尚である。 相応は北野に生まれ、15歳の時に比叡山に登り、2年後に出家した。その後、最澄の遺訓に従い籠山12年の修行に入る。 |
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●主な展示物●
・千日回峰行の装束 ・菅公自作像と小鏡 ・葛川の第三の滝 他 |
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| 片桐且元 (かたぎりかつもと1556年〜1615年) |
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安土桃山時代の武将。弘治2年須賀谷で生まれる。秀吉に仕え天正2年(1583年)賎ケ岳の戦いで抜群の功をたてた七本槍の一人である。その功により三千石をあてがわれる。その後、小牧、九州、小田原の諸役に従った。 |
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●主な展示物● |
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| 海北友松 (かいほうゆうしょう 1533年〜1615年) |
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| 安土桃山時代の画家。浅井長政の重臣である海北綱親の子で、名は紹益といい天文2年瓜生で生まれた。織田信長によって主家浅井家が滅ぼされた。しかし、すでに早く京都、東福寺に出家していた友松一人はこの難を逃れ、41歳で還俗、以後海北家再興を志し、画事のかたわら武芸にも励んだ。 画は独力で自らの画境を切り開いたと言われる。友松独特の人物画は「袋人物」と呼ばれ賞賛された。そうした画人としての活動だけでなく、友松は和歌や連歌、茶の湯にも通じ、当代一流の文化人としての高い教養を備えていた。その一端はかれの幅広い交友からもうかがえる。明智光秀の配下であった斎藤利三とはとりわけ親しく、のち1582年山アの合戦で光秀が破れ、利三が秀吉側に捕らえられて処刑された時、友松はその遺体を奪い返し、真如堂に葬ったという。朝廷の御用をつとめ、また豊臣秀吉に仕えて聚楽第に多くの絵を描いた。友松の作品は当時の画人に比べ、多く残っている。建仁寺大方丈障壁画や、建仁寺禅居庵障壁画「飲中八山図屏風」(京都国立博物館)、「山水図屏風」(東京国立博物館)、「雲龍図屏風」(北野天満宮)、「牡丹図屏風」(妙心寺)。桂宮家伝世の品である「浜松図屏風」「網干図屏風」などが代表作に数えられる。いずれも気迫のこもった鋭い表現をみせ、武人画家友松の面影を彷彿とさせる。慶長20年6月2日没。親友斎藤利三の墓もある真如堂に葬られた。後年、海北家は友松の子友雪の代になって海北派は一時没落するが、この時、海北家を引き立て再興させたのは、ほかならぬ利三の娘春日局であった。友松の恩義に報いたのであろう。 |
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●主な展示物● |
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| 小堀遠州 (こぼりえんしゅう 1579年〜1647年) |
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江戸時代初期の総合文化人として知られる。徳川家康に従い、備中国奉行で、検地奉行も勤めた小堀正次の子で、天正7年、現在の長浜市小堀町で生まれた。正次が没し、技術官僚としての才能は遠州に引き継がれていく。江戸幕府の高官(技術官僚)を勤め、国奉行・伏見奉行を歴任、当時の畿内政治の中心人物であった。また、造園・建築の作事奉行を勤め、皇居・江戸城・大坂城・名古屋城・駿府城などの事業を成し、芸術感や識見に優れ、天才的技量を発揮した。中でも大徳寺・孤蓬庵・桂離宮・竜光寺密庵などは著名である。さらに大名茶を確立し、千利休・吉田織部と並んで桃山以降の三大茶人の一人といわれ、徳川秀忠・家光の二代にわたり茶道師範を勤め、遠州流の祖となった。 実務的な才能に加え、家康・秀忠の信任を得ていた岳父藤堂高虎の後ろ盾にも応えた。 遠州は近江の仕事も多く、近江国奉行を長く勤め、さらに現浅井町に一万石の領地を得、小室藩の基礎を築いた。遠州自身がこの地に定住することはなかったようだが、領地の人々を愛する心は熱く、日照りで困っている農民のために、木尾・高畑・竜安寺・小室などの、溜め池造築に着手した。 遠州公なき後、正之が父の遺志を継ぎ、小室に居城を築いた。小室陣屋(御殿)や家臣屋敷を完成し陣屋を中心とした36ケ村の所領からなる藩政治の核となった。 |
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●主な展示物● |
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| 小野湖山 (おのこざん 1814年〜1910年) |
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漢詩人。 |
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●主な展示物● |
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